OBリレー第3走者:三代澤芳男(平成13年卒)

第3走者 三代澤 芳男(Yoshio Miyosawa)OB

当時 教育学部 小学校教員養成課程 保健体育選修(平成13年)卒
   中・長距離ブロック所属
   大学時代は800mから箱根予選会の20kmまで出場
現在 県立豊科高等学校教諭(保健体育科),同校陸上競技部監督

●共通質問●

―いまはどのようなお仕事を。

「公立高校の保健体育科の教諭です。野沢南高校に7年、高遠高校に4年、(地元の)豊科高校に来て、今年で16年目に入りました。最初の頃は経験値も少ないし、授業の準備の資料作りなど手探り状態でやっていたので苦労しました。教員だけの仕事じゃなく、外の仕事も多いです。一番きつかったのは、2年目の野沢南高時代に回ってきた東信地区の高体連事務局の仕事。3年間事務局長としてその仕事に携わりました。今でも超きつかったと思います(笑い)。陸上だけじゃなくて、全部の競技を総括する。25、26歳の頃にその競技の大御所の先生に指示したりするのはきつかった(笑い)。事務的な仕事は嫌いでは無く、今も長野陸協の強化部の庶務という立場でその時の経験が生きています」
 「クラブ活動はずっと陸上部を見てきました。陸上競技は部として一つですけど、競技としては大きく分けても走・投・跳の3種類がある。自分になじみのない種目の選手を見るのは、最初は苦労しました。自分の知らない種目の方が研究熱心になるところもあります(笑い)。近くの先生に教わったこともあれば、たまに講習会をやったりもしていた。そういうところで見聞きしたことを持ち帰ってやったりしていました。(初任の)野沢南高時代は上位大会になかなかつながらなかった。公立高校で選手は集まらないし、自分の中でも実績はない。最初の頃は手探り状態でやっていました。公立校で転勤もするし、与えられた環境でどうやるか。こういうところでどう強くなるか、そういったことを逆にモチベーションにやっていました。」

―現役時代はどの種目を。

「中長距離で1500mや5000m、3000m障害など何でも屋でした(笑い)。小中と水泳をやって、中学は水泳と陸上の二刀流でした。小学校のマラソン大会では6年間勝っていて、外のマラソン大会でも3番くらいには入っていた。走るのが好きで、中学は陸上をやりたかったけど、陸上部はありませんでした。当時の所属としては美術部。中学1年の中信地区大会では1500mで優勝できました。その翌週に水泳の1500mでも優勝しました(笑い)。中学1年は水泳メインでしたが、中学2年は陸上がメイン。中学3年で陸上部が創設されて、水泳を止めました。中学3年からは完全に陸上一筋になっていました」

―1番思い出に残っている試合や出来事は。

「学生時代はあまり良い思い出はありませんでした。けがの繰り返しだったし、大学時代に自分の中で会心のレースをしたということはありませんでした。強いて言うなら大学1年の時の箱根予選会。自分のイメージ通り、タイムも設定通りに走れた。部内でも2、3番の上位の方だった記憶はあります。当時は大井埠頭で5kmのコースを4周していました。風も暑さもあまりありませんでした。関東の大学に来て、箱根予選会を走りたいという気持ちはやっぱりありました。当時は大学でも一番練習ができていた。けがもなく、調子も良かった。高校時代もあちこち痛かったけど、そこまで大きなけがはなかった。2年生以降は故障が多くてうまくいきませんでした。今思えば故障はだいたいケア不足がほとんどだったと思う。大学を出てから33歳くらいまでは県縦断駅伝などで走り続けていました。そういうけがの部分には、卒業してからの方がクレバーになったし、調子も良かったです(笑い)」

 「当時は菅平ではなく、夏の合宿は車山や霧ヶ峰でやっていました。合宿初日に足の裏にまめができて、全く走れずに補強しかできなかった年もありました(笑い)。合宿に来て、合宿ができなかったこともありました。当時は有吉先生と繁田先生が指導してくれていました。有吉先生はラップ読むときに2、3秒サバを読んでいた記憶があります(笑い)。野口さんはその時代からコーチでした。陸マガの取材に行ったこともあって、クリスマスの夜に高校駅伝の写真を選んだこともありますし、箱根駅伝の取材で区間賞のコメントを書いたこともありました」

―陸上部での活動がいまの仕事にどのように結び付いていますか。

「野沢南高の頃は、自分自身の振る舞いも強い学校の先生たちみたいにならないといけないのかなという気持ちがありました。とある時から自分らしくやれば良いということに気付きました。色んなものを参考にするけど、自分の中で良しというものを採用しています。自分の中で思っているのは、選手としてはたいしたことがなかったので、『俺はこういう練習をして強くなった』というのが無いので、変な固定概念がないところは長所だと思っています。固定概念がないので、良いと思ったらやるし、必要ないと思ったらやりません」

「高遠高に赴任した時に、3年生に原翔太(現:スズキ浜松AC)がいました。彼は自分で練習をやっていた選手。3年の時にインターハイに出て、初めて監督としてインターハイに連れて行ってもらいました。そういうところに行くと上のレベルの選手の練習も見られて、目が肥えてきます。自分が大事だと思っていたことや動きづくりなど、そういう場所でも同じようなことをやっているのを見ると、自分の考えていることもそんなに間違ってはいないのかなと思えるようになりました。その年に強化部の庶務になって、レベルの高い選手の練習を見る機会が増えた。原くんのおかげでそういう機会に出くわすことが増えた。その繰り返しだと思います。その頃から自分の良いものは採用しようという考えになりました」

「監督だから上ではなく、身近にいる一番良いアドバイザーになりたいと思っています。陸上は感覚の競技でもあるので、同じことを教えることにも表現の引き出しがいくつもあった方が良いと思う。指導はするけど、結果を出しているのは選手。選手によって指導者としての経験値を上げてもらっていたし、その経験値が選手に還元されているところもある。それは今も変わりません。みんなレベルが高いわけじゃなくて、素人で来る人もいます。じゃあこの子たちをうまくするためにはどうしたら良いかを考える。技術だけを教えようとすると、わからない子はたくさんいます。高遠高時代に、体育で運動が苦手な子に技術を教えてもだめだと気付きました。技術の一つ前にある初歩的な、日常的な運動感覚を教えるのが大事だということがわかりました。技術の一つ前を考えるようになりました」

―あなたにとって”学芸陸上部“とは。

「公立高校に勤めている指導者が多く、『公立でもやれるんだぞ』と思わせてくれる。全国各地に先輩がいて、『先輩たちも後輩たちも頑張っているな』と思うときに、学芸大学を意識します。学芸大学はハングリー精神を思い出させてくれます(笑い)」

●後輩たちへ●

-5月24日から27日まで開催される関東インカレに向けて-

「インカレは出る選手も応援の選手も含めて、総力戦だと思います。当然、標準記録を切ったりするのも条件だと思いますが、大学の代表として出ているからには、チームの思いを共有して戦ってほしいと思います」

取材日:2018年5月21日
聞き手:片井雅也(H28 B類社会専攻卒、学生時代はトレーナー)
写真説明:豊科高校正門前にて

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