OBリレー第1走者:鈴木彰(昭和62年卒)

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第1走者 鈴木 彰(Akira Suzuki)OB

当時 教育学部 初等教育教員養成課程 国語選修(昭和62年)卒
   第60回(昭和59年)箱根駅伝:1区1時間11分41秒(19位)
   マラソン自己記録2時間20分43秒(びわ湖)はいまも学芸大記録として残る
現在 e-Athletes ヘッドコーチ、NPO法人あっとランナー代表理事、JAAFコーチ(日体協公認コーチ)

●共通質問●

―いまはどのようなお仕事を。

「市民ランナー指導のプロフェッショナルコーチです。(具体的には)有料会員制のクラブチームを経営しています。いまは日本にたくさんありますが、有料で経営という形で始めたのはおそらく日本で最初です。基幹事業はメールでトレーニング内容をもらって、アドバイスを返すというメールサポートです。それに加えて、週1回土曜日に練習会。さらに講習会や合宿を不定期で開催しています。始めた頃(2001年)はサブスリーが当たり前くらいのランナーが集まってきました。当時はマラソンで3時間半切っていない会員はいませんでした。こういう時代(ランニングブーム)になり、いまは情報があふれている。最近は意図したわけではないですが中堅以下のランナーがターゲットになっています」

―現役時代はどの種目を。

「学生らしく5000mや10000mをやっていました。インカレでは長い種目。当時1部は30km2部は20km。2、3年と30km4年は20kmを走りました。その延長線で2年と4年の2度マラソンを走りました。有吉先生の『冬はマラソン』という考えに中長距離ブロック全体が感化され、僕らの代はほとんどマラソンを走っていると思います」

―1番思い出に残っている試合や出来事は。

「1番インパクトが強いのは箱根を獲ったときの予選会。それと4年のインカレ。(予選会は)時代も違うし、記念大会。今と比べると全然甘甘ですけど、それでもやっぱり”奇跡“なんですよ。その奇跡の過程がほんとうに忘れられない。(4年のインカレは)入賞できたということ。当時は6位までが入賞で4年は2部での戦いでした。初日の最初の20kmはランキング15~16番でしたが、結果として6位入賞。自分でも点が取れたという成果を上げられたことがうれしかったです。最終日午後の1000mは7位。うれしい6位と悔しい7位を味わいました」

―陸上部での活動がいまの仕事にどのように結び付いていますか。

「結果的に陸上の人生ですよね。始めは『浪人しているし、国語科だし』ということで入部を悩んでいました。それでも結果として箱根にも出れて、インカレでも入賞できた。大学でやっていたことがいまに繫がっています」

―あなたにとって”学芸陸上部“とは。

「経験は全てにおいて出会いの場ということ。卒業後に学芸大を卒業したことでいろんな人に助けられたし、いろんな人に信用してもらえた。今思えば学生時代は楽しかったけど、戻りたいとは思わない。でも当時やっていたことがいまに繫がっている。そういう意味では(学芸大を卒業したことは)誇らしいです」

●ひと●

指導者暦は27を数え、自身も中・高・大から実業団と競技を続け、現在でもサブスリーを維持するまさに“陸上の人生”だ。在学中には箱根駅伝出場を果たし、マラソンで学芸大記録を打ち立てた。実業団に進んだ後、27歳で大学陸上競技部のコーチに転身。2001年には自らNPO法人を立ち上げ、その道の第一人者として15年間継続してきた。「まさに青天のへきれき。神様のおかげです」

入学前から第60回は記念大会で出場枠が広がり、学芸大学にもチャンスがあるという情報が流れていた。予選会前、出走メンバー全員が自己記録を上回る設定タイムを提出。だが、「(本戦出場には)これでは足りないと」。設定タイムをさらに引き上げ、誰もが厳しいとわかっていた。

迎えた当日、“奇跡”が起きたのだ。「自分の走りも神懸かっていた」。チームトップで駆け抜けると、学芸大学も本戦出場を勝ち取っていた。しかし、120%の力を出した体は悲鳴を上げていた。予選会後はまともに練習も積めなかった。本戦の目標は「完全最下位(注1)は避けよう」といったものだった。

本番当日も状態は決して良くはなかったが、「緊張はなかった」。20人のランナーがアップを行う。スタートが近づき、襷をかける。スタート2分前のコール。スタートラインでコートを脱ぐと、「ツーンという音がした」。一気に緊張感に襲われた。自分自身がスタートラインに並んでいるものの、テレビ画面からそれを見ているような感覚だった。「長い競技人生であんな経験はない」

2分前からの緊張感を感じながらも、スタートの号砲を聞くと、冷静になった。走れる状態ではなかったが、3kmまで先頭に着き、東大、慶応の走者と並走。途中で離されたものの、ブレーキした駒大の走者を抜いて、19位でつないだ。完全最下位は早くもなくなっていた。チームは総合でも19位でフィニッシュした。

卒業前の3月、びわ湖毎日では2時間20分43秒と、現在でも残る学芸大記録を打ち立てた。電車で偶然再開した高校時代の後輩をきっかけに卒業後は実業団の道へ。記録を意識し過ぎてなかなか伸び悩んでいたところに「学芸大の先輩からお誘いがあった」。

27歳で大学陸上競技部のコーチに就任。その後10年に渡って、時にはプレイングコーチとして一線の学生を指導した。箱根駅伝を見据えてプロ化してくる練習。しかし、「ずっと推薦で上がってきたような子たち。就職も含めて、社会人として送り出したかった」。その根底には自身の実業団での経験があった。

実業団とはいえ、バブル時代の企業だ。「政治や経済、そういった生々しいものに触れる機会が多かった」。単なる競技指導ではなく、一社会人として育てていくことを大切にした。学生の指導から退いた後、2001年からは市民ランナーの指導に当たっている。

その目はまだまだ先を見据えていた。「これからは中・高年の走り方・指導が大切になってくる。高齢者のアスレチックスポーツをいかにやっていくかがこれからの方向です」。自身もサブスリーを維持して、中・高年のトレーニングを蓄積している段階だ。「経験は全てにおいて出会いの場」。鈴木はまだまだ走り続けていく。
(=敬称略)

(注1)全体で最下位ではなく、どこか1つの区間でも最下位を避けようとしたこと。

●Voice●

鈴木「僕らの頃と比べて就職先が多様化していることに驚く。普通の企業や公的機関も多くて、すごい。こうした学芸のネットワークを学閥の一つとして利用できるのはうらやましい。ちなみに練習会のスタッフが慢性的に不足しているので募集中です。男女問わずマラソン完走能力があれば、僕のところ(suzuki@runner.ne.jp)までご連絡ください」

取材日:2016年10月11日
聞き手:片井雅也(H28 B類社会専攻卒、学生時代はトレーナー)
写真説明:東京都三軒茶屋駅直結のキャロットタワー26階の展望スペースにて

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